くるくる回る蘭の花。

「ザ・インタビューズ」というサイトの中毒者です。

「f植物園の巣穴」感想。――読書とは今までの本を全て同時に読んでいる。

f植物園の巣穴

f植物園の巣穴

 「f植物園の巣穴」を読了いたしました

 

 いつものように内容とは全く関係ない感想となる。純文学はつまらない、つまらないと言えば純文学だ。なんていっていた過去の自分にこの本を読ませたい。そうするときっと過去の自分はやっぱり純文学はつまらないなどと言うだろう。ダメじゃん。

 

 この本はおもしろい。それは確かである。しかし、小説が面白かろうと、それを受け取る能力がなければそうは感じない。今の自分ならこの小説は面白いとはっきり言うことは可能だが、過去の自分ではこの小説は受け止めきれなかったであろう。

 

 小説というものは自らに新たなる物を与えるように見せかけて、自らの中から様々なことを引っ張り上げてくるものである。小説を読むのではなく、小説に読まれているのだなんて言うと哲学性を帯びちゃったりするかも知れない。小説を読むにあったてはそこに書いてある文字以上に、自らの中に含まれている文字を読むことになる。小説を読み進める内にその文字列は自らの文字列とリンクを張る、それはまるで脳内の神経細胞、ニューロンのつながりのように。

 

 過去につまらなかったと思う本も今読めば面白いと感じるかも知れない。「不思議の国のアリス」はつまらないなんて当時中学生だった俺は言っていたが、今読めばその感想は変わるだろう。まあ、不思議の国のアリスは原文で読みたいものだ。だが、俺は日本語しか読めない。

 

 日本語は読める。だからといって日本語で書かれた本なら全て読めるわけではない。単純に知識がないというわけではなく、心が未熟だという点だ。心というか、文字列が作り出したシナプスというか。脳が未熟だと物事は理解できない、文字列のシナプス結合が未熟だと物語は理解できない。だから、まあ、何が言いたいのかというと、もっと文字列のシナプスを結合しなくては、と言うことだ。

 

 この物語は心地よく心に澄み渡っていった。この文字列はここちよくシナプス結合した。この物語は俺の中に組みこまれた。そして、この物語は違う物語に引き出され、また結合するのだろう。この物語は違う物語を読むときにも同時に読まれるのだろう。読書とは一冊の本を読んでいるわけではない、今まで読んできた全ての本を同時に読んでいる、そう言っちゃっても良いんじゃないかな。