くるくる回る蘭の花。

「ザ・インタビューズ」というサイトの中毒者です。

金を食べる。

 ベッドから落下して頭を打ち、念のため病院で検査して、1万吹っ飛びました。「もう寝ねぇ」と安物のベッドを解体したら、クッションが発泡スチロールでした。

 

 さて、お金の話をしよう。

 

 金の力が強すぎるとか、金の重みを感じたくないとか、前インタビューズに書いたんだが、何でそんなことを文章に起こしたのかというと、俺はものすごく金を意識して生きているからだ。たとえば、食べ物を食べるときに、「このラーメン、980円するんだぜ」と味より先に金の話が出てきてしまう。味わうというよりは値段を食べているかのようだ。花を買っても、「この花束って500円なんだぜ、1500円くらいには見えるよな」てな感じになってしまう。花を観賞しているのではなく、金を観賞してしまっている。

 

 そんな俺はけっこう散財している。俺カネナイヨー、カネナイヨ―とさりげなく主張し続けているが、実は月に3万の金を自由に動かせる(まぁ、一万くらいは医者で飛ぶ)。障害年金により、月換算で約65000円入るからだ。そのうち3万を家に入れている。5000円は貯金。前から、「ニートだけど寄生じゃなくて着生だから!」と言っているだけあって金銭面では一応自立している。まぁ、精神面では全く自立していないが。働かず金を貰っていることに申し訳なさを感じて、何故か貧乏を主張していた俺だ。しかし、俺としては「障害が無かったら、この数倍は楽に稼いでる」とも強く思う。それに、精神障害のせいで、働いているくらいの苦しみと時間ロスは味わっている。知り合いの尊敬できる方には「障害年金を貰うことが、お前に出来る親孝行だ」と言われたよ。

 

 さて話は変わり、思うのだが。お金を使っている人って偉そうじゃないか? 飲食店で料理を提供している店より、客の方が偉そうな気がするし、コンビニでも店員の方が下手だ(病院では医者の方が偉そうだが)。等価交換をしているのだから、どちらが偉いということはなはずだが。弟は「日本人は見えないものに金をかけない」と言っていた。これはプログラミングの話の時に出てきた言葉なんだが、日本人はプログラムに金をかけないとか何とか。それに日本にはチップの文化がないよね。

 

 ともかく、金を使うと言うことは大体は等価のモノと交換しているのであって、金を使うと言うことはただ金を失うという事じゃない。金の代わりとなる等価値のモノを得ているのだから。