くるくる回る蘭の花。

「ザ・インタビューズ」というサイトの中毒者です。

「絶対貧困」感想――十円で、目の前のにいる一人の人間、その命をつなげるのだ。

絶対貧困

絶対貧困

 

 「絶対貧困」を読了いたしました。

 

 この講義を読み終え一番心に残ったのは、「日本人は物乞いに対して喜捨をしない。そんなことをしても解決にならない、キリがないと。しかし、十円あれば彼らの食事をまかなえるのだ、何を高尚に考える必要がある」とのような文章だ。そう、物乞いにいくら喜捨しても世界の貧困は無くならない。だからどうしたんだ、十円を物乞いに喜捨することによって、目の前のにいる一人の人間、その命をつなげるのだ。それはとても誇らしいことではないか、一人の力じゃ世界は変えられないかも知れない。だが、一人の力で一人の人間を、一人の人間の世界を救うことは出来るんだ。

 

 それは同情から来ているのかも知れない、見下しての事かも知れない、自尊心のためかも知れない、それらの卑しいといわれる感情から金を施したのかも知れない。だが、俺は思う、寄付や喜捨をするのに尊い感情が必ずしも必要なのかと。必ずしも慈愛の精神で喜捨をする必要はないだろう。卑しいとされる感情から十円渡そうとも、尊いとされる感情から十円渡そうとも。受け取った物には同じ価値を持った十円だ。そして、それで飯を食うことが出来る、命をつなぐことが出来る。それが例えどんな気持ちから生まれた金銭であろうとも、受け取った物からすればそれは命の糧、未来への糧となる。深い考えなど無くても、軽い気持ちの寄付でも命は救われる。

 

 現地を知ることなく、「少年の労働、反対」や「不法入国者の取り締まり」、「路上生活者の追い出し」や「売春の取り締まり」を指示することは簡単だ。そして、それで全体が向上に繋がることもあるのだろう。しかし、それで生活を、命を失う者もいる。国のことを、世界のことを考えたら正しいことでも、それで何かを失う人間はいる。統計上ではただの数字でしかない人間だってみな必死に生きている。全体のために見捨てられた数字――人間。彼らを見捨てることが全体で見れば正しいのだとしても、その数人を、個人個人を見つめて、知って、出来ることなら救いたいと思っても間違いじゃないと思いたい。数人の人間を助けるために大勢の人間を犠牲にするのは間違っているかも知れない。目の前の一人を救うために十人を犠牲にする。それは、間違いなのかも知れない。しかし、一人の人のために十人を犠牲にする間違いを犯すなんて、――人間らしくて良いじゃないか。

 

 この本を読み終わり、俺は貧困地帯のために寄付をした――なんて事はない、俺がこの本を読み心に残った言葉は、「目の前の人を救う」だ。高尚なことなんて関係ない、全体の利益なんて関係ない、深い理由なんて覚悟なんて無い、「ただ目の前で困っている人がいて、ただ助けたかったから、助けた」それで良いじゃないか。目の前にいたから、単純に心が動かされたから助けた。そんな行動が人間らしくて良いじゃないか。目の前に困っている人がいたら、助けて、自分が助けられたら、ありがとう。そんな素直な人間に俺はなりたい。――いや、なれる。