くるくる回る蘭の花。

「ザ・インタビューズ」というサイトの中毒者です。

「虐殺器官」感想。――言葉には「物事をわかった気にさせる力」がある。

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官」を読了いたしました。

 

 さて、この本はcimacoxさんに進められて読んだわけなので、感想を書こうと思う。だが、俺は本の感想をあまり書いたことが無かったりする。しかし、小説の中に「ピザ」が出てきて、その「ピザが美味しそうだ」と思う。結果、「ピザについて原稿用紙十枚書く」というのも感想文であることには間違いはない。そのような感じに、本を読んで思いついたことをフリーダムに書くのが俺の感想文である。

 

 昔、人間は「甘い」食べ物や「脂質」を多く含んだ食べ物には、なかなかありつけなかった。だから今、それがダイエットの天敵になろうとも、人間には深く刻まれていて、逆らえない。人間の身体が左右対称なのは、昔、魚として海を泳いでいたときの名残だ。男性が会話ですぐに結果を出そうとするのは、狩りをしていたから、女性が感情を確認し合うための会話をするのは、木の実を取っていたから。今の俺たち人間は、進化の過程に捕らわれている。最初からこの形で作られたのではなく、環境に合わせてその場その場で変わってきた。目標が最初からあったわけではない、眼球の作りはそれを教えてくれる。

 

 人間は進化の過程で、「美味しい」とともに「協調」を「利他的」行動を会得した。レミングは集団自殺をしない。そもそも遺伝子は種の保存など考えていない。生物は自らの遺伝子を残すために生きている。ライオンの雄が他の雄から群れを乗っ取ったときに、群れの(自律できない)子供を殺す。そうすると、群れの雌は新しい雄に対して発情する。妊娠中のネズミが臭いの嗅いだことのない雄に出会うと、流産する。インドでは結婚の当てがないカースト最上位の女の子を中絶する。それらは全て自らの遺伝子を残すため。可能な限り自分に近い遺伝子を残す。それが主題だ。――しかし、「コンドームには人類の英知が詰まっている」なんて俺は言っている。コンドームを使えると言うことは既に人間は、遺伝子の縛りから解き放されているということだ。

 

 さて、話がそれるというか、知識自慢なってしまうのが俺の感想文。本題に戻ろう。この小説の題名は「虐殺器官」、進化の過程で人間は「虐殺」を得て、フェロモンの代わりに「言葉」で「良心」をマスキングし伝播する、そういう器官のお話。ここで、フェロモンによって集団行動する生物の名でもあげられれば知識自慢に箔がつくというものだが、残念ながら思いつかなかった。そもそも、これは感想文である。知識を自慢する場ではない。感想を書こう。

 

 色々と書くことがあるような無いような感じだが、まずは「良心」について書いてみよう。良心が魂などとは関係なく、進化の過程で生まれたものだとする。なら、良心は「お菓子」を食べて「美味しい」と思うようなものではないか、「失敗した料理」を食べて「まずい」と思うように、「人」を殺して「罪悪感に襲われる」。それに「良心」やら「善悪」という名前をつけ、ご大層なモノとして扱われる。まずい料理は食べたくないし、人を殺したくはない。うん、わかりやすい理由だ。

 

 虐殺を悪とする、虐殺を否定する「良心」も進化で生まれたモノだとし、「虐殺」もまた進化の過程で生まれたとしたら、どちらかが間違っているというわけでもないのだろう。「良心」を肯定し「虐殺」を否定するなら、それぞれの価値を決め付けるというのなら、それこそが「言葉」だ。言葉には物事を祭り上げる機能も貶める機能もある、そもそも言葉がなければ「価値」という概念も生まれない。虐殺が悪だから、「虐殺は悪だ」という言葉が生まれるのか、「虐殺は悪だ」という言葉によって、虐殺は悪と定義されたのか。「良心」が祭り上げられるのは、祭り上げる価値があったからなのか、祭り上げられたから「良心」が価値を持ったのか。味の好みは味蕾の数によって決まる、味蕾の数は遺伝子によって決まる。善悪は言葉の情報によってきまる、言葉の情報はミームによって決まるのだろうか?

 

 虐殺の文法というものが無くとも、人は言葉によって「良心」をマスキングされる。ネットでよく見かける例は「正義」を振りかざし「叩く」人たちだ。「犯罪」とされるような行動を取った者は「悪」とされる。叩く者は正義になる。「犯罪」とは便利な「言葉」だ、犯罪の名がつけばそれは即ち「悪」とされる。深く考えなくて良い、「犯罪なら悪じゃないか」、と。それは思考停止を招く、扉を開けばもっと奥に部屋があるのに、「犯罪」と書いてある扉を見つければ、それで全てがわかったかのようにそこで立ち止まってしまう。それが言葉の力だ。

 

 ネットの言葉では「中二病」という言葉がある。それは恥ずかしいモノとされる。会話で「それって中二病だよね」との台詞が出ると、何かが解決したかのような気になり、その会話はそこで終了する。もっと深くつっこめばそれぞれのもっと違う部分に触れることが出来るのに、わかりやすい名前をつけて満足する。言葉には「物事をわかった気にさせる力」がある。「物事を決め付ける力」がある。「ニート」だと聞けば「やる気がないよね」と、「犯罪者」と聞けば「悪人だよね」で終わる。それぞれには一言では終わらない物語があるはずなのに、言葉は全てをひとまとめにする。それは虐殺である。一つの言葉生まれたことによって、他の言葉は滅ぼされた。

 

  「虐殺器官」、その物語の最後で、主人公は自らを見ていなかった母の瞳を知る。俺たち人間は「虐殺」の言葉だけを聞いて、現場の人たちを見ていない。「犯罪」の言葉だけを見て、その人を見つめていない。「ニート」で終わらせて、その人間を真に見てはいない。俺は物語を書く身だ。だから、一言で終わらさず、ひたすら文字を綴ろうじゃないか、「美味しい」とい単語を使わずに、料理の美味しさを表してこそ作家だ。犯罪者も「犯罪」を抜きにして、その人間を語ることができる。「虐殺」という言葉の奥に秘められている、美しさだってきっと書き出すことが出来る、そう、美しいという言葉を使わずとも、それを読者の心に刻み込める。そして、その情報はミームとして世界を渡るだろう。俺が死んだ後もずっと――。